開館前の9時20分に長崎県美術館について、開館まで時間があったので水辺の森公園を散歩して5分前に美術館に行きました。
開館前にかかわらず多くの人たちがすでに待っていました。
前回は、院展を見に来たのですが、そのときよりもたくさんの人が鑑賞しにきていました。
特に子供が多かったですね。
それと車いすの方もたくさん見られました。
今回の展示会で驚いたことは、一つ一つの作品に説明が記載していることと、山下清画伯の言葉が載っていたことです。
その言葉を少し・・・
東海道53次という山下清画伯の晩年の作品集に一つ一つ言葉が記載されていました。
例えば
品川の海
どうして東京の海がきたないかというと
ゴミがたくさんういてるためではないんだな
海の景色は はっきりしてるとこがいいんだな
こんなにもやみたいなものでぼやっとしていると
なんだかみんなよごれてるように思えるな
東京タワーも半分しかみえないな
きっと東京タワーにお金をだしてのぼってみても
海の景色は半分しかきれいでないな
タワーにのぼった人はそんするな
「川崎大師」
川崎のお大師様にどうしてたくさんの人がおまいりに来るかというと
おまいりに来るといいことがあるという人が多いからだな
ぼくは放浪のとき
成田さんのお守りをよその人に貰って
それをつけて鉄道線路を歩いたら汽車にひかれなかったな
それをどっかへなくしてから鉄道線路をあるいたら
やっぱり汽車にひかれなかったな
お守りのききめはわからないな
ここで一番とくをしてるのは
ただでえさをもらっているハトだな
「清見寺」
清見寺という名だな このお寺は
古っぽしいけど上等に見えるな
お寺の前庭のところを汽車の東海道線が走っているのは
どういうわけかな お寺より汽車の方が大事なので
お寺の人はそんしたな
お寺から見える海は
うめたて工事であんまりきれいじゃないな
お寺の人はよその人に
自分の寺がきれいと思われるのがいいか
自分がお寺から見る景色がいい方がいいか
どっちだろうな
「牧の原」
牧の原ってとこは全部お茶畑だな
日本人はお茶がすきだから
こんなに広いお茶畑がいるんだな
ぼくはルンペンしてるとき
よその家でときどきお茶をのませてもらったけど
西洋のルンペンはコーヒーか紅茶をのませて
もらえるのかな
日本でもお茶をくださいというと
ルンペンにお茶はぜいたくだ水にしろといわれたので
水はおなかをこわすと悪いですというと
勝手にしろといって それでもお湯をくれたな
など、正直な感想が書かれていて、それを読んで作品を見てとしていくと
あっという間に時間が過ぎていきました。
山下清画伯のプロフィールを少し
1922年 3月10日 東京市浅草区田中町に生まれる。
· 1928年 浅草の石浜小学校に入学する。
· 1934年 千葉県の養護施設「八幡学園」に入園する。
· 1939年 11月18日、突然、放浪の旅に出る。
· 1954年 鹿児島にて放浪生活を終える。
· 1959年 ヨーロッパ9カ国を訪問する。
· 1971年 7月12日 他界 (享年49歳)
放浪への旅立ち
「僕は八幡学園に六年半も居るので 学園があきてほかの仕事をやらうと思ってここから逃げていかうかと思っているので へたに逃げると学園の先生につかまってしまふので上手に逃げようと思って居ました」
山下清は、初めて放浪に出たときの動機をこのように日記に書いています。
昭和15年11月18日、突然、山下清は八幡学園から姿を消しました。清が始めて放浪に出た昭和15年は、太平洋戦争の開戦の前年であり、日本は戦争ムードが深刻化していた時代でした。この時、清は18歳。翌々年に徴兵検査を迎える年齢となっていたのです。放浪の旅に出た清は、やがて徴兵され戦地に出兵することに恐怖を感じ、さらに放浪を続ける結果となったのです。
清の日記には、
「もうじき兵隊検査があるので もし甲種合格だったら兵隊へ行ってさんざんなぐられ戦地へ行ってこわい思いをしたり 敵のたまに当たって死ぬのが一番おっかないと思っていました」
と書かれています。
昭和18年、21歳になった清は徴兵検査を免れたと思い、新宿に住んでいた母の家に戻りました。放浪に旅立ってから3年半ぶりの帰宅でしたが、母は容赦なく徴兵年齢(20歳)を過ぎていた清を徴兵検査場に連れて行ったのです。しかし、結果は丁種不合格。出兵を恐れて放浪を続けた清ですが、皮肉にも不合格となり徴兵免除となったのです。これにより自由の身となった清は、再び放浪の旅に出て行くのでした。
絵を描くための放浪じゃない
山下清が放浪に出た理由は「学園生活の飽き」であり、さらに放浪を続ける原因となったのが「戦争出征回避」でした。しかし、もっと根底にあったものは自由でいたいという願望でした。
清の放浪生活は、暑い季節は北へ、寒くなってくると南下するといった、まさに本能の赴くままの旅です。そして、この放浪で清が求めたものは、何もしないで「ぼやっ」としている時間であり、この「ぼやっ」としている時間こそ、清の自由な空間だったのです。
18歳で放浪生活を始めた清は、学園生活や徴兵から逃げ出すことを「悪」と考えず、自分の正直な気持ちを表現した正しい行動と捉えていました。そして、心の安定と自由な時間を求め、本能の赴くままの旅を続けるのでした。
テレビドラマの「裸の大将放浪記」では、放浪先で絵を描き、さまざまな感動を残すストーリーとなっていますが、実際の放浪ではほとんど絵を描いていません。旅先で見た風物を自分の脳裏に鮮明に焼きつけ、実家や八幡学園に帰ってから自分の記憶によるイメージを描いていたのです。数ヶ月間、時には数年間の放浪生活から帰った清は、驚異的な記憶力により自分の脳裏に焼きついた風物を鮮明に再現していたのです。しかも、山下清のフィルターを通したイメージは、実物の風物より色鮮やかで暖かい画像となり、それが独特の貼り絵となっていったのです。
彼の日記にも、そのことが書かれています。
「ぼくは放浪している時 絵を描くために歩き回っているのではなく きれいな景色やめずらしい物を見るのが好きで歩いている 貼絵は帰ってからゆっくり思い出して描くことができた」
とういようなプロフィールがありましたが、やはり実物の貼り絵作品やペン画を見ると「天才」というのはこういう人をいうのだのとつくづく思います。
ここにはとうてい書き表せないので、興味がある方は6月20日まで長崎県美術展で開催されていますので見てください。必ず感動すると思います。
あっという間に昼過ぎてしまったので美術館内のカフェでカレーとコーヒーを頂きました。
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